神  心



  昭和五十四年二月二十七日  朝の御理解

御理解  第  八  節  「子供の中に屑の子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ」

  信心しておかげを受けてくれよと言われる。私共が拝ませて頂いておる神様は、屑の子ほどかわいいと、思し召す程の神様なのです。それは昨日の御理解を頂きますと、様々な難儀、世の中の言うならば戦争なんかというような悲惨な殺し合いのそのことですらも、言うならめぐりのお取り払いであり、おかげの一つ一つの自壊作用だと言うふうに頂きましたよね。言うならば、「やれ痛や、今みかげを」と言うのがそれですね。様々な難儀、言うならば叩かれれば痛い、痛いけれども今こそめぐりのお取り払いを頂いているんだと言う心になれと。
  そういう心にならせて頂いてのおかげなんです。おかげを受けてくれよと言うのはそういう心になってくれよ。どういう訳で私を叩くか、自分たちがどうしてこんなに苦しまねばならないのか。そういう心では親の心が分かって信心してという事ではないわけ。信心しておかげを受けてくれよと言うのは、只拝んでくれよ、参ってくれよじゃないわけ。
  金光教の信心はどこまでも「屑の子ほど可愛い」というその親心をもって、私どもにおかげを授けて下さる神様であるという事を、まず知らなければならぬ、ね。
  だから、なら苦しかってもです、「おかげで信心が出来ます」と言うことになってくるわけね。だからなかなか難しいです。そこの辺までを辿らせてもらうという事は、やはり苦しければ苦しいで楽になりたい、楽になりたいと言うて、ま  お願いをするわけですけども、だからそういう、なら信心がいつまでも続いてはならないと言うことです。

  先だって遠方からお参りした方ですけども、クリスチャン、ある難儀な問題で参って見えましたが、それからまた昨日お参りをして見えて、言うならば先生のお話を頂いておったら、これは一つ本気でお道の信心を勉強してみたいと思う。言うなら自分が抱えておるその難儀を通して、金光教の信心を分からせて頂きたいと思うという昨日お届がございました。だからキリスト教でいう神様と私共の言う天地金乃神様と言うのは、もう性状そのものが違う、そんな感じがいたしますね。私はキリスト教の神様はどういう神様かわかりませんけれども、お話を頂かれれば頂かれるほど、いわゆる人間が幸せになっていく事のための神様であるという事がはっきり解って来られたという感じですね。だから人間が幸せになるという事は、願ったら願い通り、頼んだら頼んだ通りのおかげを頂かれれば人間が幸せかと言うとそうじゃないね、その証拠には金がどんなに沢山あっても、どんなお城のような家に住んでおってもね、その中にあるところの悩みとか、苦しみとかというものはです、もうどうにも仕方がない程しの悩みをもっておられる。

  昨日私は研修のときに、半ばに、今丁度末永先生達が壱岐の方へ夫婦で帰っております。子供たちを残しとりますもんですから、静行君だったと思う。その前を切のうてたまらんようにしておばあちゃんを尋ねて泣いて通るんです。私は子供の泣き声を聞きますとドキッとするんです本当に、ね。だからしばらくして私は、お話を止めました。そして本当に私は子供の泣き声を聞いても何か心がドキッとするように思うんだけれども、という話をさせて頂いたんです。そしてその研修が終わってからです、すぐ丁度椛目の愛子も研修を受けておりましたから、すぐ私の部屋にやって参りまして、いやぁもう今日の研修じゃなくって、親先生が静行君が泣いて行きよるのを見てからドキッとすると、私はもうこれが一番、もう悲しい声を出しよると、こっちまでが悲しくなるような思いがするんです。あのうテレビに今は見ませんけれども、小さい四ツ五ツの子供がね、お母さんに叱られて、もう今にも泣き出しそうにするコマ-シャルがあったんです。私はその写真を見るたんびに私の方が泣き出しそうな顔になりよったです、ね。
  そういう心というものが、これはもう私だけのものだろうか、と言うて話したけれども、愛子が参りましてから言うのに、四神様のみ教えにね、「あの親先生こういうみ教えがありますよ」と、私は初めて聞いたんです。泣き声はね、天地の親神様の心には、一寸言葉を忘れましたが、責めさいなまれる、「あっ  せんぎょうする、責めさいなまれる」せんぎょうを受ける時のように天地の親神様には響くんだと。笑い声はそれとは反対に高天原を聞いておるようなものだと、金の鈴を聞いておるように神様には聞こえると言うみ教えがあると聞かせてもらってね、改めて私自身おかげを頂いておることに、私は有難いと思わせて頂いた。

  慈悲と言い、いうならば愛と言いね、金光教では、真とか、真心とか言いますけれども、私は何と言っても、お道の信心は生神金光大神を目指すということですから、結局、神の心、神心を私は強くしていくこと、神心を頂いていくこと。その神心の中には慈悲の心も、そしてまた愛の心も入って来るんだというふうに思うんです。
  昨日キリスト教者が感じられたのはそういうところを感じられたのじゃなかろうかと私は思うのですね。
  金光教で言う神心というのは素晴らしい。それこそ屑の子程可愛いと言う神情をもって私どもに接して下さる神様ね。子供の泣き声でも三代金光様のお言葉の中にありますようにね、子供の泣き声をきいたらね、神様にすぐ御祈念をするとおっしゃられます、ね。そういう言うなら微妙な心そのものが私は神心だと思うんです。
  そこで、なら今日信心しておかげを受けてくれよと言う信心とはね、いつも家の中に笑いが絶えない、このようなお繰り合わせ、人間関係ね、「とてもこげん苦しかとこれどうして笑われるか」と。それは私ども椛目の時代に、なら食べる食がない、といったような時分に、それこそ鍋の中を見たら人がびっくりするようなものを頂いておった時代でも、「大坪さんところはいつもやっぱ、信心ちゃ有り難いもの、いつも笑いが絶えないと言われておりました、ね。たまたま両親がいよいよ苦しいときに、私にいろいろ申しました。黙って聞いておると、ほんに一緒に泣き出さんならんような苦しい中にありましたけれども、聞き終わってくるに従ってです、だんだん聞いておるとおかしくなって来るんです。もう自分でどうにも仕様がない程におかしくなってくるんです。でしまいにもう腹をかかえて私が笑うんです。「あんた、こげな大事な話をしよるところに笑ってから」、と言うて、両親が申します、ね。けれども先の方を分かっていない、先のおかげを知ってないから、悲しい事を言っておるんだと。だからそれがもうおかしうてたまらん、「さあ御祈念、御祈念」と言うて、ま  そういう悲しい事を聞いて御神前に出て御祈念をする、御祈念をして御理解の一つもまた頂いておりますと、そんならまた一頑張りと言うような時代が続きました。椛目の方達は何人も参っておられますから、その通りでした。も  大変な苦しい中にあっても、あの大坪さん所では笑いが絶えない。
  二階にはもう生きるか死ぬかと言うような妹の婿が、胸の病気で寝ておりました。下の方では、もう食べるに食なしと言ったような難儀な中にありましてもです、なぜ笑えたかと言うとね、先の事を知ってないからです。神様の心を知ってないからです。だから信心させて頂いたら、結局神様の心を分からなければいけないね。どういうふうに分かるかと言うと、今日の「信心しておかげをうけてくれよ」と言うお道での信心はね、「腹を立てない」例えば、嫁姑の仲の悪いのは天地に響くという程しの神様なんです。だから嫁姑が仲がようて笑いで占めておるというような、またこれが天地に響かないはずがない。そのいうならばル-トをたどっておかげは流れてくるものだと  ね。
  今の金光様が西久留米におい出られた事があった。そこの先生は非常に権威のある女の先生ですけれども、もう笑うたら損する、ち言うごたる顔しとられますもん、金光様が見通しだと思うです。そこでお書下げになったのは“笑え  笑え,と大きくお書下げが、今西久留米に残ってるという事ですね。私は本当に心から笑える人、それにはね、只おかしいから笑うと言うのじゃなくて、どういうときであっても笑えるという事。本当におかげを頂かなきゃいけませんよね。そのためには神様の心が分からないかん。そしてどういう性状の神様という事がわかるとですね、それこそ憎うてこの手が当てらりょうかという神様なのですから、その向こうが分かったら、あ々  この修行を通り抜けた先には、どういうおかげが頂けるだろうかと、輝かしいまでにですね、それを感じる事が出来る。サァ-一頑張り、と言うファイトも湧いてくる、と言うようなもんですね。
  そして、なら目指すところは結局、私どもの我情我欲ですね。いろんな障害になっておる心を取り外させてもろうて、いよいよ神心を目指させてもらう。神様に通うようなおかげね、確かに「難あって喜べ」とおっしゃる、そんな難しい事は出来んごとあるけれどもです、もう本当に難があるたんべんに「有難うございます」とお礼ぐらい言えなければでけんです。

  一昨日でしたか福岡の秋永英治君から電話がかかってきた。子供が百円玉飲み込んだとこう言うのです。まだ三つ四つでしょうか。それからすぐお願いさせてもらいよったら、まあ十分位立ちましたら、おかげで下へ飲み込んだと。その前は大変な、もう真っ青になって苦しんだそうですけれども、おかげを頂いたと。昨日夫婦でお礼に出て来ました。それで、ここの中に入っとる。百円硬貨がね入っとりますから、そのためでしょう医者に、まあ係付けの医者に連れて行ったんでしょう。そしたらおかげ頂いとることが分かった。

  その子は金玉が一つしかなかった。ところが二つ出来とりますよと言う。二つありますよと言う、ね。それこそびっくりした。苦しんだ時に、やっぱ  ないわけはないから、上にあがっとったか何かでしょうたい。それこそ金玉が上がったり下がったりですたい(笑い)ね。そういう広大なおかげを頂いたと言うて昨日は親子三人でお礼に来ました。ですから百円玉のみこんだと言うだけでも、やはりおかげでしょうが。
  それは私どもは、おかげを頂ききらんけれどもですね、これは神様の深い御都合があるに違いない、御都合があるに違いない。それは私が部屋に居るときに、若先生がその事をお届けにすぐ来ました。「もうとにかく、この頃秋永の家には、次から次と異常な事ばかり起こる。もう秋永一家の者が本当にここに目覚めなければ、改めなければならん事があるとです」と前置きしてその事をお届けしました、ね。だからその事が分かって次の信心が出来るならもっと素晴らしい事に、そのおかげでなら夫婦の者がと言うか、一家の者が、また信心が新たに出来ることにもなるから有難い。それこそ難あって喜べです。四神様はもうそれこそ単刀直入、いわゆる「難あって喜べ」とおっしゃっとるのです、ね。

  昨日は沢山、またお礼の手紙があちこちから参りましたが、中に脇山さんの行っておる教会、他の修行生からは、全部教会外の教会で修行のいろんな、それこそ素晴らしいおかげを頂いている事が向こうの教会からも来ましたし、本人からも電話がかかって来たり、手紙が何通も参りました。そしてどの手紙にも、電話でも只々、もう合楽理念のすざましい働きに畏れ入ってしもうとりますと言う事ばっかりでした。そしたらたまたま一昨日が田主丸の報徳祭、霊祭がございましたから若先生が行っとりました。あちらで高宮の何とかと言う教会長先生のお説教だったそうですが。その中で合楽の話が出た。合楽から脇山さんという人が00教会に行っとられるでしょう、本部でも評判しとりますと言う話じゃった。どういう事が評判になるかと言うと、その教会に行って黒衣を着たまま買い物に、何か御用に行くそうです。それだけではない、もう行ったところ行ったところで合楽示現活動をやるわけです。だからそれが参ってくる訳です、そして助かる訳なんでね。だからその先生から昨日お礼の手紙が来てるんです。「もう本当にお宅の脇山という修行生は聖女です」と書いてある。聖女というのは「聖書」の聖ね。もう皆さんご承知のように、もうそれっこそだま-ってどこにおるやら分からんようにしとりますけども、やっぱりお道の教師にでも志すと言うのですから、中にたぎるものを持っておるに違いはないです。それが見ず知らんところの土地に行っていわゆる教会修行に入らせて頂いた途端に、言うならばその合楽での信心を発揮しているわけ。だからその事を若先生から田主丸で聞いた話を聞いたすぐ後に、この手紙が来たんですね。だからその手紙を見せて頂いてです、その脇山さんの修行ぶりまたは脇山さんのこういうような、とにかくあの人を見ておると、言うならば「この人こそ聖女だ」とこう言うわけなんです。「本当に清々しいというか、清らかな感じの修行生ですもんね、小柄ですけれど」と言うふうに相手の教会の教会長先生には映っておるね。どこへ行っても合楽理念。
  昨日はある教会なんかお礼を言うて来てですよ、お初穂まで送ってきたですね。本当にありがたい、そしてまたこちらの刊行物を送ってくれと言うて別に、他の教会でしたけどもお金を五千円同封で送って来とる。お初穂を五千円同封で送って来とる。
  お初穂を送って来たりそういうかかわりあいがです、どこから生まれてくるかと言うと言うなら修行生の修行態度とその内容であるところの、合楽理念の素晴らしさに感じておられるのではないでしょうか。合楽理念を行じていく、本当にその気にならせて頂くと、今日頂きますように、もう神心を目指さなければおれないように説いてあるのです  ね。

  それを言うならば一昨日に、私は大変に、一生懸命ここさえ頂けばおかげになるばいと言うようなお話をさせて頂いた。その日はお参りもここいっぱいでした。だから皆んなが聞いて頂いたと思っておったら、加藤さんの奥さんが頂いておられるのがね、「沢山なお湯飲み茶碗が置いてあるところを頂いた」と。
  皆んなこうやって頂いておるけれどもね、本当に親先生が言いなさるところを聞いたのはわずかで、他は皆んなお茶にする、という事。ならこうやって今日聞いて頂いておってもです、成程信心しておかげを受けてくれよ、と言うそのおかげの内容と言うのはね、悔やんじゃならん、泣いちゃならんね、そういう時でも笑える手立てがあるんだ、ね。
  笑いは神様にこう響く。悲しい事やら苦しい事は神様にこう響く。どうでも、ならどのような信心させて頂いたら笑えるようなおかげになるかと言うことをですね、いわゆる天地の親神様のお心を分からせて頂いてね、それこそ「難あって  喜べ」という信心を目指させて頂く。その手立てが合楽理念にもそれは詳しく説いてある。いわゆる生神を目指す手立てが、楽しう有難う出来る。だからその楽しう有難う出来れる手立てを頂いて信心をさせてもろうてね、おかげを受けてくれよ、と言われるおかげを私共は頂かねばならん。だから皆さん聞いただけじゃいかんです。本当にそれに取り組ませて頂くとです、笑えるんです。笑えるはずのないところに笑える元気な心が生まれてくる、ね。笑いはそれこそ神様の耳には金の鈴を打ち振るような音に聞こえる。大祓いの声にも聞こえると言われるのですから、それとは反対の思い方やら表現やらはいかに神様の心を言うならば暗くするか、ね。悲しませるかという事を分からせてもろうてね、いわゆる本当に喜べれる信心を目指さなきゃならんという事になりますね。

  これは私自身が体験しておる事を聞いて頂いた訳ですけれども、もうこれ以上の難儀苦労はなかろうという時でもです、悲しい話を聞いておって、こちらがもらい泣きするような、こっちも一緒になって泣かなんような話を聞いておってもです、聞きおれば聞きおる程、段々段々下からもう隠そうと思っても隠されん様におかしくなってくるです。なぜだったろうか、結局神様の心を私が分かっておったからです。神様はね、憎いからこの貧乏、この難儀を与えておられるのではない。もう可愛くてたまらん神様の愛の手がそれなんだという事が具体的に言うなら、そういうものが分かっておったから両親のその悲しい私に対する訴えでもです、おかしゅうておかしゅうてこたえんごたる風に聞こえて来たのじゃないだろうか。もう神様も一緒に手を叩いて喜んでおって下さったに違いがないような感じがするのです。

                                                              「どうぞ」